信夫山の歴史

信夫山の古墳は別として、欽明天皇・石姫伝説までさかのぼれば、聖徳太子の飛鳥時代(574年)以前から歴史が始まることになる。
しかしあくまで、これは伝説であるから、実際には奈良時代(710年)の万葉集、あるいは平安時代(794年)の伊勢物語あたりから、しのぶ=恋心を忍ぶ、という言葉が都人にもてはやされ、和歌が日本の文化となるとともに、「みちのくの信夫山」が、憧れとともに語られるようになった。と伝えられている。記録に現れてくるのは、天安(857)慈覚大師が寂光寺を開いた時期から。

羽黒大権現の正確な開基は不明だが、康平(1064年)に飯坂の佐藤庄司が登拝路として七曲坂を開いたときには、羽黒神社・黒沼神社もあった。慶長5年(1600年)の伊達政宗との松川合戦で羽黒神社は兵火に焼かれ、その後も何度も炎上し再建された。

元禄(1700年)に岩谷観音磨崖仏ができ、同(1702年)、初代板倉重寛が福島城主となり、板倉藩政がスタートする。安永(1774年)古関三郎次(古関裕而先祖)祓川橋・石造目鏡橋を寄進。嘉永(1848)羽黒神社再建、大彫刻の社殿完成。明治2年(1896)神仏分離令により仁王門廃止、羽黒大権現は羽黒神社となる。昭和40年信夫山トンネル竣工、平成の現代にいたる。

 

●古歌にみる信夫山

平安時代末の千載集や新古今集など、勅選和歌集には90首もの歌枕が詠まれ、歌物語「伊勢物語」には信夫山を主題とした物語もある。

●信夫山の名前の由来

かつて青葉山とも呼ばれた信夫山は、山岳信仰の中心地であった山伏修験の西峯「羽山(麓山)」を大羽山(おおはやま)と呼び、その同音から転じて、大葉山、青葉山と云われるようになった。という説がある。羽黒大権現が伊達氏の崇敬をうけて、伊達2郡の総社といわれた時代はひろく青葉山と呼ばれていた。しかし、土地の人々は、敬愛と信仰をこめて御山と呼んできた。

一方、信夫山の名前は、天保12年(1839年)に志田正徳が書いた記録書、伊達一統志によると、この山にはじめに生えた草でも木でもない竹に似た植物=しの竹を、始篠生=はじめシノしょうずる、としたところから、篠生(しのぶ)と呼んだ説。またこの山名産の忍草(しのぶ草)から云われたという説もある。
さらに、信達古語名所記にみる忍夫(しのぶ)説は、夫をしのぶ笹木野の大杉伝説よりきたなどがある。

また、学術語でアイヌ語原説では、SHI-NUPシヌプからシノブに変化したという。シとは大きい、ヌプは平原の意。また、NUPURIヌプリは山の意味で、石山を指すという。東大の金田一博士は、このシヌプ説を支持したといわれる。

いかにして しるべなくと尋ねみん 信夫の山の奥のかよひ路 俊成