信夫山の文人

●羽黒神社下、珠屑の碑

信夫山の歴史や伝承を語るとき、すべての原典となる著書「西坂茂・信夫山」がある。

著者の西坂茂氏は、江戸後期の信夫山の御山村名主であり、高名な俳人でもあった西坂珠屑(しゅせつ)の孫にあたるが、昭和16年に初版を出版した。

幻の本といわれ絶版となっていたが、昭和62年に待望の「復刻版西坂茂・信夫山」として再版された。

著書によると、狩野派の鷹の名手と謳われた画家、西坂楳山(ばいざん)が西坂茂氏の父親という。


 

その後、嘉永6年に珠屑の弟子達が羽黒権現の下の大石に「名月や 物にさわらぬ 牛の角」という句碑を建てた。

嘉永同年に、黒沼神社境内に歌人、六種園望遐(ろくしゅえんもちとう)の施頭歌の歌碑も造立されている。

このように、信夫山の文人達は古い歴史をもつ。


●愛宕山の文学碑・記念碑

護国神社向かいの信夫山公園愛宕山には、たくさんの石碑がある。

歌碑では、福島藩士国学者で歌人の仁科信清の歌碑、福島県歌人会長をつとめた作山暁村の歌碑があり、句碑では、旧長州藩で戊辰戦争に参謀を務めた、杉聴雨(すぎちょうう)の「月や空 世のうきことも 信夫山」と大書した碑がある。

また、原袋蜘(はらたいち)の有名な句碑「永き日も 遊びたらずに 暮れにけり」もあり、その他にも斎藤自省の句碑、長沢長吉供養句碑など、さまざまな石碑がある。

碑以外の石碑でも、堀江半峰の碑、吾妻山噴火調査で殉職した吾妻山殉難記念碑等がある。


●古関三郎治の寄進した祓川橋

現在、信夫山のふもと、噴水公園の黒沼に移設されているめがね橋は、本参道の神橋であった祓川(はらいがわ)橋である。

享和3年(1803年)に、作曲家・古関裕而の先祖、三郎治が建てたもので、空石積み工法という高度な技術の半円形の石組み橋で、橋の両側に鶴と亀の見事なレリーフが彫刻されている。